LABRAVA

メキシコノート 0058

シュルレアリスムの楽園 ラス ポサス

ラス ポサス ヒリトラ
Xilitla, San Luis Potosi, Mexico, 2013

メキシコ中部サン ルイス ポトシー州の南端にあるヒリトラ(Xilitla)は、小さな町だった。メインストリートではたくさんの商店と屋台と人と車がごちゃごちゃとせめぎあう。道路に覆いかぶさるように立ち並ぶ建物はカラフルだけど、なんとなく素っ気ない。中央広場を薄汚れた天幕の屋台が埋め尽くす。町営市場は古びてみすぼらしい。町には程よいレストランが数えるほどしかない。なのに、昼間から爆音で音楽が鳴る酒場はたくさんある。雑多で、素っ気なくて、みすぼらしい、とGは早々に町を評価した。が、ぷらぷらと歩き回っているうちに、ありふれたメキシコの町では出合えない不思議な魅力があることに気づく。山と谷、ジャングルと町、のんびりした中央広場と崖にへばりつくように建っている家々や急勾配の長い階段、このあたり一帯にさりげなく薫る先住民ウアステコ族の文化とサン アグスティン修道院が体現しているキリスト教布教の歴史、そういう対比的なものがなんとなく調和してユニークな町にしているということに。しかも、観光地然とすると消えてしまうあの魔法がかった空気、メキシコの田舎町ならではの風情がまだ残っている。今どきこの雰囲気、なかなか味わえるものじゃない、と評価を変えたGは、ヒリトラに来たことを心底喜んだ。この旅は正解。

何かここに見るべきものはないかと気まぐれに土地の人に尋ねる。すると谷を越えた向こう側にラス ポサスという楽園があるという。「きっと気に入るでしょう」と勧めてくれた。楽園と聞いて気にならない人間などいない。ヒリトラの町を見尽くしたころ、Gはラス ポサスのことをふと思い出した。早速町を出て、大きく谷を迂回する小石まじりの道をてくてくと歩き始める。小一時間経ち、道に迫る木々や垂れ下がる羊歯のたぐいとエアプランツが不気味なほどに濃く暗くなってきて、熱帯の鳥たちの不思議な鳴き声に包まれるころ、巨大で奇怪なコンクリートの建物がぬっと浮き出るように現れた。ここがラス ポサスの入り口か。きらきらとした日差しを浴びる花畑、小鳥がさえずる木立、きらめく小川、恥ずかしいほどかわいらしい小さな家、楽園と聞いてそんな光景を漠然と思い浮かべていたGは、わずかに面食らった。とはいえ怯むほどではなく、Gはすたすたと楽園ラス ポサスに足を踏み入れて右手にのびる舗道を行く。ラス ポサスとは、2500坪という広大なジャングルに36もの奇妙なコンクリートの建物が溶けこんだ、思いも寄らない楽園なのであった。

立爪にダイヤモンドの代わりに植物が植えられた「女王の指輪」という名のアーチをくぐり、左に7匹のコンクリートの蛇、右に巨大な黄色い花と葉をつけたやはりコンクリートの植物が配された「七つの大罪の道」を行く。出足からこれか、すっかり現実世界から隔離された、とGは思う。実のところ現実の世界から隔離されたかったG。1匹1罪を模したと思しき蛇の前を通り過ぎるごとに、自らの、平凡で些細ではあるが、本人にとってはいつも体の真ん中にしこりのように居座る罪の禊になるなら、とキリスト教徒でもないくせに思わないではなかった。七つの蛇を通り過ぎ、インコの棲家にしてはやけに大きな「インコの家」といわれる建物のなかを通って、逆方向にのびる上り道を行く。細い散歩道はときに階段となり、両側から巨人の雑草のような植物が迫ってくる。と、巨大なコンクリートの花が咲く広場が現れる。広場からは鬱蒼としたジャングルのなかに聳え立つ、見ようによっては近未来的といえなくもない大きな塔や建物が見える。幻想的というより非現実の世界だとGは思った。完全に現実から引き離され、すっかり愉快になったG。今までよりもゆっくりとした足取りでさらにジャングルを進む。それぞれにテーマをもった意匠が施された建物をいくつか巡り、敷地内でいちばん高いところに位置する「竹の宮殿」まで上る。竹の柱が並んでいるように見えるが、これももちろんコンクリート製。人がいないのをいいことに、Gは「竹の宮殿」のフロアで小さく踊ってみた。さらに進むと「5階建てになるはずだった3階建ての家」がある。廃墟のように見えるこの家に、Gは現実に引き戻される気がして、いささか落ち着かなくなった。だから別の道を足早に下って先程の広場に出る。

入り口まで戻ったGは、今度は左手の道、川沿いの石畳を進む。涼やかな音、ジャングルの緑、時の経ったコンクリートの温かみ。Gの気分は再び上向いた。遡っていくと、階段の踊り場のように川のところどころに岩やコンクリートで堰を作ってプールが設けられている。自然のプール。これがラス ポサス(ポサ Poza とはプールのこと)と名づけられた所以だな、とG。ちゃんと水着を用意してきた若者が、ポサで水と戯れている。水を見るのは好きだが泳ぎたくはないGは、ポサのほとりで指を水につけ、小さくかき混ぜてジャングルとの一体感を味わってみる。さらに川を遡ると、いちばんてっぺんにもポサが。こちらは若者のグループが服のまま水に飛び込み、悪ふざけしている。ふと見上げると、先程の「5階建てになるはずだった3階建ての家」が頭上すぐそばに聳えている。そろそろ現実に戻れということか、とGは川に沿って入り口まで流れて行った。

ジャングルにあるシュルレアリスムの楽園ラス ポサスは、イギリスの大富豪エドワード ジェームズがつくった。1947年、メキシコ人の友だちでガイドを務めたプルタルコ ガステルムの名義でこの土地を入手した彼は、総工事費約500万ドルをつぎこんでこの不思議な楽園をつくり続け、ランを栽培し、熱帯の鳥や動物たちを飼育していた。1984年にエドワード ジェームズが亡くなったあとはガステルム家がなんとか管理していたが、現在はサン ルイス ポトシー州やメキシコの大手セメント会社セメックスなどがつくった基金が修復し運営している。朽ちて忘れられるだけ、のはずだった奇妙な楽園は生き残ったのである。

それにしてもエドワード ジェームズとは、とGは思う。ダリやマグリット、レオノーラ キャリントンなどシュルレアリストたちのパトロン。ダリやマグリットだけでなく、ピカソ、クレー、キリコ、ジャコメッティ、マックス エルンスト、ポール デルヴォー、ヒエロニムス ボス、パヴェル チェリチェフなどの作品を集めたアート コレクター。自分の大豪邸をウェスト ディーン カレッジとして惜しげもなく寄贈した超富豪。イサム ノグチ、ベルトルト ブレヒト、クルト ワイル、オルダス ハクスリーなどとも交流があったという詩人にして芸術家。なるほど、さすがに奇妙な楽園の創造主は変わり者だな、とGはつぶやく。そのうえ、エドワード ジェームズの母。母はスコットランドの社交界にいた人で、数多くの浮き名を流したイギリス王エドワード7世の娘ではないかといわれている。つまり、エドワード ジェームズはイギリス王の孫かもしれない。エドワード ジェームズなる人物は、出自からして高貴に謎めいているじゃない。

ラス ポサスは、ジャングルに飲み込まれて説明のつかない遺跡になっていたら、より超現実的でよかったかもしれないのに、とGは考える。ジャングルに飲み込まれなかったから、今こうしてラス ポサスを探検できたことに満足しているくせに。ラス ポサスにいた一時、現実を忘れて久々に心のざわざわがおさまったくせに。ヒリトラの町に戻ったGは、今はホテルになっているプルタルコ ガステルムの家を訪れる。これもまた超現実的な建物で、無造作にレオノーラ キャリントンの壁画があったりするアートな家。エドワード ジェームズもラス ポサスに滞在しないときはここで暮らした。彼の使った部屋に心静かに佇むG。この部屋の壁には、コンゴウインコを手にのせて穏やかに微笑む白髭のエドワード ジェームズの写真や愛用のステッキが飾ってある。マン レイによる若き日のポートレイトでは神経質そうな青年だったけれど、ここ「シュルレアルな国」メキシコで楽園を創造するという夢を叶えて仙人然とした彼はずいぶん幸せそうだ、Gはじっと写真に見入ってそう思うのだった。