LABRAVA

メキシコノート 0036

タスコと北川民次のこと

Taxco, Guerrero, Mexico, 1997

1920年代から30年代にかけてのメキシコといえば、エミリアーノ・サパタやパンチョ・ビジャが農民のために立ち上がったメキシコ革命の直後で、国じゅうが混乱していた時期だった。たしかに世の中は混沌としていたけれども、人々の気持ちのなかにはなにかが芽吹く予感のする生き生きとした時代だったといえるかもしれない。メキシコ近代絵画も動き出していた。このころに、画家の北川民次はメキシコに渡っただけでなく、かの地で児童美術教育の基礎をつくりあげた。新しく開設された子供のためのトラルパンの野外美術学校で、その後に移校されたタスコでは校長として、美術を教えたのだった。

タスコは、銀鉱山によって栄えた山間のかわいらしい街である。 山肌に沿って、白壁と赤い瓦屋根の家々が並ぶようすは、おとぎ話の世界のようだ。そのメルヘンチックな佇まいに加えて、メキシコシティから車で3時間ほどの近い距離ということもあり、観光客がぞくぞくと押し寄せる。タスコといえば銀に白と赤の瀟洒な街並み、そして急な坂道。この絵心をそそる美しい土地ならば、さぞ絵の教育には適していたにちがいない。北川も試行錯誤しながらものびのびと教えていたのだろうと思いきや、そうとも限らなかったらしい。裕福な旅行者や移住者の、子供たちに対する慈善心のあからさまな贈りものやベタ褒めの批評には、ほとほと閉口したようだ。とはいえ、北川の活動に興味をもった人々は多く、メキシコ国内だけでなく国外にも及ぶ。タスコ野外美術学校を訪れた見学者は、錚々たる顔ぶれである。イサム・ノグチ、ヤスオ・クニヨシ、リベラにシケイロスなどなど。藤田嗣治は、開校間もないころに訪れている。だれもがタスコの美しさと気候を満喫しながら、子供たちの絵を興味深く見つめたことだろう。

北川は日本に帰国したのちも子供のための美術学校を開き、指導を行う。ところが、メキシコの子供と日本の子供とではとりまく生活環境があまりに異なるせいで、とても苦心をしたようである。過保護に育てられ、大人の絵を真似たような絵を描く「よい子」を求められてきた日本の子は、貧しく自由のないメキシコの子供に比べて、なぜか自由な絵をなかなか描くことができない傾向にあったのだそうだ。北川は「メキシコの児童画にはたしかに重苦しい表情がある。だがそれは美しい」。その美しさには「冗談ごとはなく、くそ真面目なくせにユーモアがあり、自信に満ちている」(『絵を描く子供たち』岩波新書)という。これは子供の絵に限らず、成人の絵にもいえるのだそうだ。ここで、はたと思う。メキシコで今つくられている木彫りにしても陶芸にしても、織物にしてもそれはいえまいか。彼らは決してウケをねらっておもしろおかしいものをつくるわけではないのに、なぜかその作品にはユーモアが漂う。そして何者にも媚びずに自信をもっている心持ちがありありとわかる。これは、昔からずっと変わらない、そして世代でも区切れない普遍のメキシコらしさだったのか、と合点がいった。

北川は、その後二科会の会長を務めたものの、会の方針に不満をもち辞任、会も脱退する。国からの叙勲も断ったそうだ。この最後まで「反骨の画家」だった北川の、唯一と思われる絵本『うさぎのみみはなぜながい』では、メキシコの昔話を描いている。この語り口と絵には、まさにメキシコらしい「くそ真面目なくせにユーモアがある」ようすがにじみ出ていて、ながめていると楽しくなる。