LABRAVA

メキシコノート 0046

フーダス焼き

セマナ・サンタのフーダス焼き - メキシコ・ウルアパン
Uruapan, Michoacan, Mexico, 2009

イエスの復活を祝う復活祭の日曜日とそれに先立つ聖週間(セマナ・サンタ)は、メキシコでもさまざまな行事が催される。受難劇などの真面目で重厚なものが多いなかで、ユニークなイベントも。裏切り者のユダ(スペイン語でフーダス)に見立てた悪魔や政治家などの張り子の人形を焼いて懲らしめる、という行事である。ところが、フーダス焼きは異教徒的な行い、というのがローマ・カトリック教会の公式見解。しかも、ユダはイエス本人の指示で密告しただけでほんとうは裏切り者じゃなかった、というフーダス焼き自体の意味を覆すことになってしまいそうなユダの福音書の説もある。が、そんなことにはおかまいなしに相変わらずメキシコではフーダスが焼かれ、スペインやほかのラテンアメリカ諸国でも似たお祭りがおこなわれている。

火のあるところにはときどきアクシデントもついてくる。ミチョアカン州ウルアパンのベルヘル地区で見たフーダス焼きでのこと。

ユダヤ暦では日没が1日の始まりなので、復活祭前日の土曜の夜にイエスの復活を祝うミサが教会堂でおこなわれる。ミサが終わると、いよいよフーダス焼き。集まってきた200人ほどの人たちと川辺の小さな広場ではじまりを待つ。セマナ・サンタにあわせてアメリカから里帰りしてきた地元の人に綿菓子のお裾分けなどをいただきながら和やかな気分で待っていると、ようやく夜10時ごろ、悪魔やスカート姿など8体のフーダスが抱えられて入場してきた。ギターやギタローン、トランペットやトロンボーンなど弦楽器と管楽器およそ10人ほどで構成される楽団の伴奏つきである。にぎやかではあるがグルーヴィとはいえない音楽に合わせて、ふわふわと踊らされる身長80センチから2メートルくらいのフーダスたちは、これから焼かれるにしてはのんきな表情。しばらく踊ったあと、まずはいちばん小さいフーダスが広場に渡されたひもに吊るされ、火がつけられる。と、くくりつけられている花火がくるくるとまわって、激しく火の粉を振り回しながら暴れ、最後にはフーダス本体がドカンと爆発。悲鳴をあげて火の粉から逃げる人、大きな爆発音に耳をふさぐ人、歓声と口笛などで人々は大騒ぎに。焼かれるフーダスはだんだんと大きくなっていき、花火も爆発もより大がかりになってくると、雰囲気も恐怖感もあわせて盛り上がる。ときどきフーダス本体から分離した花火がくるくる回りながら飛んできて爆発するので、近くで見物していた人たちはどんどん後退していく。

そして4体めのフーダスに火がつけられる。と、フーダスから大きな火の粉が隣家の中庭に飛んでいって、あれよあれよという間に火事になった。煙が立ちのぼり、炎が壁をオレンジ色に染める。フーダス焼きは一時中断され、消防車が遅いだの、あの家は今留守にしているだの、と群衆はざわつく。心配しているふうではあるのだが、どこか不意なアクシデントを喜んでいるような。加えて、あろうことか楽団は陽気な音楽で場を盛り上げにかかる。まるで火事を囃し立てるかのように演奏のヴォリュームが上がり、それに応えて隣家のオレンジ色は次第に大きくなり煙がもくもくと上がる。

ようやく到着した消防車が火を消し止め、屋根に登った消防士が懐中電灯片手に鎮火を確認。思いがけない余興がおわり、フーダス焼きも再開される。焼かれるフーダスはさらに大きくなっていき、トリは2メートル級の大悪魔。ヘッドライナーにふさわしい派手な仕掛け花火と爆発に腰が引けつつも人々は大はしゃぎだ。四旬節からの解放感もあるのか、先程の厳粛なミサとひとつづきの行事とは思えないクライマックスである。つらい浮世の憂さを晴らすにはぴったりのこのイベント、フーダス焼き本来の宗教的意味はとりあえず置いておいて、スリリングな花火で非日常の高揚感を楽しむのが正しい。ちょっとかわいそうな隣家の火事というおまけがついたとしても。